2012年10月8日月曜日

WEB情報

WEB上で『へばの』唐津上映をご紹介いただいています。



『へばの』公式HPトップページに、情報を掲載していただいています。
http://teamjudas.lomo.jp/


『へばの』監督である木村文洋さんのブログにも情報を掲載していただいています。
http://ameblo.jp/bunyokimura2009/


2009年、『へばの』が初めて九州で上映された福岡KBCシネマ「漆黒紀州映画祭」登壇者であり、今回の唐津上映でも登壇をお願いしている小野俊彦さんのブログでも、力強い文章とともに紹介していただいています。
http://blog.livedoor.jp/hesalkun/


「岡山人民映画会」の「批評集」に、私が書いた「ここから何が見えるか」という文章を掲載していただきました。
『へばの』のことも書いています。
読んでくださると嬉しいです。
「岡山人民映画会」は、私が今回の上映を開催するにあたって大きなきっかけを作ってくれた重要な映画会です。
「批評集」には、『へばの』プロデューサーの桑原広考さんが書かれた「大バカ野郎たちの出発」(『へばの』パンフレットに収録)や小野俊彦さんの映画評なども掲載されています。
http://jinmin2011.movie.coocan.jp/

2012年10月4日木曜日

『へばの』上映会に向けて


上映会まで、もうすぐ一ヶ月になった。

この「『へばの』上映会に向けて」は、本上映会の企画書として今年の五月に書き終えた。
同時に、私が今回の上映会を自らのものとして始めるために、書く必要があった。

私がこの文章を書いてから、五ヶ月が経とうとしている。




『へばの』上映会に向けて


佐賀県唐津市は、原子力発電所を有する玄海町に隣接する。
「原発が近くにあるから、原発を扱った映画をやる。」
上映の理由になるのだろうか。
だが、それだけではやれないと思った。
なぜ「原発を扱った映画のどれか」ではなく、『へばの』なのか。
それを考えていた。

原発が身近にある不安から、反原発を訴えるためなのか。
しかしそれは、今の自分の状況と乖離している、嘘をつきすぎているように思った。
漫然と原発の恩恵に与り続けている人間がやることなのかと思った。
また反原発を訴えることが目的ならば、放射能の危険性を具体的に示したドキュメンタリーではなくなぜ『へばの』なのか。
「原発の問題は抜きにしても、ただ面白い映画だから、多くの人に観て欲しい」
いっそそれだけでいいのだろうか。
だが、『へばの』と唐津市を結びつける原子力発電所は現にそこにあるではないか。

なぜ『へばの』なのかを考えていたとき、上映可能な場所を見つけた。
その会場は「大手口センタービル」という、九州電力から5億の寄付を受けている再開発ビルに入っていた。
九電の寄付で賄われているビルで『へばの』をやるのは果たしてどうなのかと考えた。
しかし「どうなのか」じゃなく、そこでやるべきだろうと思った。
普段原発の金にどっぷりと浸かった生活をしている人間が、上映会だけそこを避けて何になるというのか、と思った。
そのとき、『へばの』上映会を実行に移そうと決めた。

昔も今も原発の恩恵を受けている土地で自分の生活だけをやっている人間が、どのように問題と対峙していくのか。
何もできていない、だからしょうがないと開き直り現状に居直ることはしたくない。
また、「私に原発について語る資格があるのか」という自問は、敵を作らないために明確な立ち位置を避ける言い訳にもなり得る。
問題を回避するための自問のポーズではなく、自分自身がどのような人間として問題に向かうことができるかを始める問いにすべきだ。
そこで上映する映画は『へばの』であると思った。

『へばの』の、青森・六ヶ所村の風景は私自身も含めた九州に住む人間の多くにとって、異質だろうと思う。
あんなにも分厚く覆う雪は、普段の生活では見ない。
交わされる言葉の響きも耳にすることがない。
初めて見たときは特に、聞き取ることができない台詞がいくつもあった。
それを人と話したときに、その危うさが作品の力の一つではないかと言われ、ああ、そうだ、と思った。
こちら側に安易にすり寄り、ひとつになろうとはしない。
なぜ『へばの』を上映するのか。
六ヶ所村で問題に直面した人々が描かれる。
彼らの苦しみを、物語を通して自分のものとして捉えなおす。
そう言ってしまえそうな気がするが、それだけでは終わらせてくれないものがある。

問題がある。
痛みが与えられ、それが他人事ではないと気付く。
自分や自分に近しい人が被害者になり得るから、考える。
それでいいのか。
映画に限らず、見る側を被害者に感情移入させ涙させる作品がある。
感情が煽られる。
だが、自身の痛みに涙し感情が一瞬昂ぶることで、何が残るのか。
被害者の立場にならなければ、問題を見ようとしないのか。

終盤、「恋の予感」が流れるシーンがある。
物語のBGMではなく、紀美が車で聞いている歌にしか聞こえなかった。
うっとりとした気持ちにはなれなかった。
だからいいと思った。
見る者を簡単に彼女に成り代わらせない。
痛みを共有できるような気がする、だがそれをためらわせるようなものがある。寄り添えるような、突き放されるような、違和感を抱きながら彼女を見つめる。
終わりに、こちらの視線に気づいたかのようにこちらをじっと見る彼女の目がある。
私は彼女になり得る、しかし、彼女ではない。
自分の視点をただ受難の側に据え付けられない。
私は、都市の雑踏の中にいる一人にもなり得るはずだ。
そして、描かれるのは問題に直面した痛みだけでない。
一人の人間として自らの答えを示す姿がある。
それは彼・彼女のものだ。
私のものではない。
だが、自身の答えを示す時は見る側にも形を変えて訪れるはずだ。

『へばの』を上映する際、どのような姿勢で臨むのか。
問題を考えるとき、自分の立場を既存のものに全て委ねてしまえば、何か重要なものが確実に抜け落ちる。
自分のいる場所から考えなければいけないと思う。
『へばの』はそれをさせる映画だと思った。
だからこそ、「原発問題を扱った映画のどれか」ではなく、『へばの』だ。

今回の上映を通して、できる限り、多くの人に見てもらいたいと思う。
唐津市と玄海町に住んでいる人だけでなく、周囲の佐賀市、福岡の人たち。それ以外の人たちも。
『へばの』を見た一人一人の中で、どのようなものが生まれるのか。
各々が得るのは一瞬の高揚だけではないと予感する。